【書評】アラブ人とユダヤ人―「約束の地」はだれのものか (3)

←前記事へ


今回のエントリーでは、この本「アラブ人とユダヤ人―「約束の地」はだれのものか」に登場するユダヤ人たちについて、私が感じたことを書いてみます。
 

◆念のため…

以前のエントリーでも軽く触れてはいますが、念のため、おさらいを。
 
パレスチナに対する、日本でのおおざっぱなイメージとして、
「パレスチナには元々パレスチナ人が住んでいて(人によっては「パレスチナ」という国があったとさえ思っている)、そこによそからユダヤ人がやってきてイスラエルという国を一方的に建国し、占領して、パレスチナ人を追い出し、また圧政下においてひどい虐殺とかしてる」
みたいに思ってる人は意外に多いのでは?

事実は、まず、パレスチナには元々ユダヤ人とアラブ人が混住していました。だから「パレスチナ人」というとユダヤ人も含んでしまいます。この呼称は混乱の元だから使いません。

さらに、移民してきたユダヤ人も一枚岩ではありません。
ざっくり、つぎの二つに分かれます。

・アシュケナジ
・セファルディ


アシュケナジはドイツ・東欧系の移民で、セファルディは、イスラム文化圏からの移民です。
「我はヨーロッパ人なり」という意識をもつユダヤ人(アシュケナジ)が主導してヨーロッパ的な民主主義国家を建国し、支配者層を形成した。そこに、イスラム文化圏からもユダヤ人が移民してくるようになってきたが、彼らは、要はヨーロッパ的でない。だもんで彼らは徐々に、アシュケナジから差別されるようになっていった。これがセファルディ。

セファルディは文化的にはアラブ人に近い。なので取り澄ましたアシュケナジよりは、アラブ人の方に親近感がある。
その一方で、ややイスラエル社会の下層寄りってことは、アラブ人たちと階層的にかぶるわけです。なので、社会経済的な緊張関係もあったりします。

なので。同じイスラエル国内のユダヤ人といっても、その立場はなかなか複雑なのです。
占領地区でアラブ人への迫害や虐殺が起こるたび、胸を痛めるユダヤ人だって多いのです。
特に、イスラエル建国戦争は正義の戦いで我々は正しいことをやってきたんだ、と信じるユダヤ人は。

「俺たちの正義は、いったいどこに消えてしまったんだ?」



◆「アラブ人は危険だから出て行け」

著者であるデイヴィッド・シプラーは凄腕のジャーナリストですが、それでも、限界はあります。

この本は、やはりどこか「私はアメリカ人で、この対立を第三者の立場から偏見なしに公正に見ているぜ」というスタンスを感じます。

しかし9.11直後、そのアメリカが、如何にイスラム教徒を故無く排斥したか、我々は、それを既に歴史的事実として知ってしまっています。

「同じ宗教を信じているのなら、あなたも、きっとああいうテロをしたいと思うんでしょ?」

(以下、引用)
マイケルと私は、エルサレムであやういところを助かっていた。(中略)もしマイケルが負傷したり死んだりしていたら、どうだったろう。アラブ人全体に対する憎しみに冒されているだろうか。私も復讐しようとするだろうか。

まさに、2000年代のアメリカ、NYのど真ん中でそれは起こったわけです。
民主主義の旗の下、あらゆる人々を受け入れる自由の国、アメリカが。
アラブ人全体に対する憎しみに冒され、復讐しようと無茶苦茶な報復をやった。

先ほどの引用は、1984年4月に発生したキング・ジョージ通りのテロ事件に関するもので、「ここ数十年来、エルサレムで起こったテロとしては一番騒然として人目をひいた襲撃事件」と書いてある。ただ、テロ自体はそう珍しい事件ではないのです。同じ月にはアラブ人によるバスのハイジャック事件が起き、怒り狂った警察官たちに容疑者が撲殺される事件も起こっています。

本書は、刊行された当時は、多くのアメリカ人にとって(日本人にとっても)衝撃のレポートであったでしょう。
そして、あくまでも遠い国の出来事でもあったでしょう。

ですが、今この時代の目で改めて見直すと、そこに描かれているのは、なんら特別な光景ではない。
テロで身近な人が傷つけられる。生まれた街が壊される。

それが起こってしまえば、誰もが激しい怒りに駆られ、理性を失い…理念を失う。
どんなリベラルな理念を持っていたって、それを完全に忘れて「奴らを排除しろ!」と叫ぶように、なってしまうんです。


現在のガザ地区の現状はアラブ人の側から報道される事が多いけれど、ユダヤ人から見れば「奴らが度重なるテロで、私たちを傷つけてきたからだ、当然の報いなんだ」というわけです。同じ立場だったらアメリカ人でもそうするでしょ、いや、実際やったよね?くらいは言いそう。

そこまでは言わんにしても、
「確かに酷いことだ…胸が痛む…でも、仕方ないんだよ…力を示さないと、自分達がアラブ国家から、滅ぼされてしまうんだから…」
という危機感をもっているのが、大多数のイスラエルのユダヤ人でしょう。



◆イスラエルという「自由な民主主義国家」?

とはいえ、イスラエルは、表向きはリベラルな民主主義国家として誕生し、宗教思想信条で人を差別しない建前でやってきたわけです。

…まあ本書を読んだ限りでは、実態は、民主主義国家と警察国家が半々って感じですねー、
日本と同じで。

それはさておき、だもんで、ユダヤ人といっても極右からリベラルまでさまざまな人がいます。

ところが、問題はむしろリベラルな人の方です。
つまりリベラルな意見を持ち、アラブ人の立場に理解を示し、占領地区での同胞の行為に胸を痛める人であっても
「でもアラブ人には出て行って欲しい」
と思っていることが多いんだそうです。

「それがお互いのためだ」というわけです。
なにもアラブ人を嫌っているわけじゃないんだよ、ただね、別々に住んだ方が、お互いを傷つけあわずにすむだろう…?

リベラルな人は、自分はリベラルだ…という思い込みがあるがゆえに、空気を呼吸するように自然に差別をしてしまっていることに、なかなか気がつかない。
自分自身が、盲点になってしまっている。

ラビ(ユダヤ教の宗教的指導者)であるダヴィッド・ハルトマン師は、「原理主義を克服し、多元論が精神的に価値のあるものとならなければならない」と本書の中で訴えています。そして多分、それが現代ユダヤ人の多くが抱いている理想ではないかなと私は感じました。

しかし、現実には、自分のすぐ近くで爆弾が炸裂すれば、そんな理想は、吹き飛んでしまう。
実際の被害にあわなくても、そうしたニュースを聞くたびに、心の底に偏見がしのびより、理想を蝕んでいく。



◆もしも、日本で同じ事が起こったら?

こうした人々の姿をじっくり見ていくうちに、次第に、私の中に、あるひとつの思いが芽生えていきました。

「すべては”不安”が根源になっている」
と。


考えてみれば、ヘンなハナシです。テロが起きた。愛する人が傷つけられた。報復だ!
そう思うのは、人間であれば自然な情でしょう。

しかし、報復すべき相手は誰なんだ?

テロを起こした、その犯人でしょう。犯人を憎み、処罰すればいい。
その犯人が「たまたまアラブ人だった」。そう、ユダヤ人が報復テロをやるケースだってあり、そこにユダヤ人が巻き込まれるケースだってある。巻き込まれた人は、「ユダヤ人」を憎むか?

前回のエントリーで紹介した「イスラエル市民であるアラブ人」のほとんどは、善良な市民であり、テロなんてやりたいともやらせたいとも思っていない。なのに、テロが起これば、ユダヤ人の市民から白い目で見られ、警察から微罪でどんどんしょっぴかれていうわけで、
これってなんか、ヘンじゃない?


…と、「無関係な日本人」なら気楽に断罪できるわけですが。
しかし私は、自分がその立場なら?と想像しました。


アラブ人テロリストがジェット機をハイジャックして、東京タワーや皇居につっこんで多数の死傷者が出たとするじゃない。
そうなったとして、あなたは、となりのぼろアパートにアラブ人たちがおおぜい住んでて、わけわからん言葉でわーわー騒いでいたとして、不安を感じませんか?

そして、その不安は完全に無根拠とも言い切れないのがやっかいです。
99%のアラブ人は善良な市民でも、その中にたった一人のテロリストがいたら?
「同胞のよしみ」で匿ったり援助したりしても不思議じゃない。


異なる文化を持つ人々への、漠然とした不安。


そんな状況になったら?誰もが、
「…いや、別に私、アラブ人に偏見を持ってるわけではないんですよね、基本はみんな良い人たちですもの。ただね、万一、ってことが、あるじゃないですか。だから、仕方ないですよね?」
といって、警察が「アラブ人っぽいから」というよくよく考えればあまりにも不当な理由でどんどん彼らをしょっぴいても、文句を言わないでしょう。



◆「オタクは危険だから出て行け」

なんでこういうことをリアルに想像できるかというと、それは、日本国内でそれに近い実例が、いっぱいあるからなんですよね。

アラブ人、パレスチナ問題。そこに視線を限定すると想像力が働かない。
そこから一度完全に視線を離して、日本で似たようなことが起こっていないか?と考える。
すると、…そりゃ、どこの国でも、人間が考えることは、似通っていますよ。


例えば。

宮崎勤の事件が社会に衝撃を与えたときから。
オタクは、「オタクっぽいから」というよくよく考えればあまりにも不当な理由で、性犯罪者扱いされるようになった。

「同じオタクなんだから、あなたも、きっとああいう犯罪をしたいと思うんでしょ?」


例えば。

在日朝鮮人が、ザンコクな犯罪事件を起こす。そうすると、やっぱり在日ってやつは。やっぱり朝鮮半島から来た人間は、どうしようもない酷い連中ばっかりだ。同じ土地に住んで欲しくない。なんでやつらを、全員さっさとクニに返さないんだ?

勿論細かく違いを言えば色々あるけど、在日朝鮮人と、イスラエル国内のアラブ人には、立場的に似通っている部分がある。
差別の構造が、似通っていると感じる。


なーんて偉そうなことを書いていますが、そんな私だって、二十代のころアルバイトで在日の方々の居住地区を歩き回ったときは、得体の知れない不安を感じたものです。そりゃ仕方ない、人間だもの。



◆不安を超克するニュータイプ思想。

このエントリーの目的は何も、オタクを差別する人や、朝鮮の方々に強硬な態度をとる人々を、断罪することではないのですよ。

そうではなく、そうした姿勢は、自分とは違う文化や生活形態を持つ人々に対して感じる「漠然とした不安」から生じる、という、この本から得た一つの知見について語りたいんです。


そもそも人間は、全ての「他者」に対して、根源的な、生存の不安、というものを誰しも持っているんです。
ただし、同じような文化や生活形態を持つ人々は、なんとなく、自分の生存を脅かさないだろう、と思い、その前提で「社会」を形成しているわけです。

(無論、そんな安心感なんて虚像でしかないが)


そして、そうでない他者には、必ず「不安」を感じます。その不安が、危険事態の発生をひきがねに、爆発するんです。


そうなると、ある、違った文化を持つ集団を、攻撃せずには居られない。
これが、人間という生物の特性なのだと感じました。
もちろん、私自身がそう。


しかし、21世紀のグローバル社会に住む私たちは、これをテクノロジーで解決しなければならない。
原始人ではないんですから。



唐突ですが。ガンダムブームのさなか、ニュータイプとはなにか?を考察したひとつの投書がありました。

「争いは、他者の心がわからないから、その不安から起きるのではないか?ニュータイプのように、相手の心が手に取るようにわかるようになれば、その時、はじめて人類は、争いをやめることができるのではないだろうか」
おおよそ、そういった内容でした。

人が、そんなに便利になれるわけ、ない…(´・_・`)
しかし、情報技術の発達は、もしかしたら将来「他者の心を手に取るようにわかる」ことを、可能にするかもしれません。


今のところ、ネットは、むしろ偏見をばら撒き、人の心を誤解させ、炎上させるツールとして作用しているようです。
またイスラエル軍は現在、ネット宣伝を多様に活用し、自らの立場を有利に導く手法を進化させているようです。


こんなことでいいんだろうか?
我々は、情報技術を如何に正しい方向に導くか、真剣に考えなければいけないのではないでしょうか。

遠く離れた他者の、心を知る。想いを、正しく理解する。
そのための技術が進化することによってはじめて、真の平和は、実現するのではないか…そんなことを今、私は考えています。

(了)

関連記事
カテゴリー
ブログ内検索
関連ページ

RSSフィード
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する